東京地方裁判所 昭和49年(ワ)1099号 判決 1978年5月25日
原告
熊谷せつ
右訴訟代理人
秋田光三
足立憲英
被告
国
右代表者
瀬戸山三男
右指定代理人
島尻寛光
外二名
主文
一 原告の各請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者双方の申立
一 原告訴訟代理人は「被告は原告に対し、金三六五七万四五八五円及び内金三三二一万二〇三〇円に対する昭和四五年一一月八日以降完済まで又は昭和四七年一月一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求めた。
二 被告指定代理人は主文同旨の判決並びに担保を条件とする仮執行免脱の宣言を求めた。
第二 当事者双方の主張
一 原告訴訟代理人は、請求の原因及び被告主張に対する答弁として次のとおり述べた。
1 原告(大正八年八月七日生の女性)は、昭和四五年九月二三日、被告が経営する東京大学医学部附属病院(略称東大病院)第一外科に入院し、同年一一月五日午後一時一〇分より二時五〇分まで開腹手術による人工肛門閉鎖術及び腹腔内癒着剥離術の加療を受けた。
右手術後の感染防止のため、同日朝より同月一〇日の朝まで六日間の毎朝夕(計一一回)、被告の被用者である同科所属看護婦によつてクロラムフエニコール(クロマイ)一グラム宛の筋肉注射が原告の大腿部になされた。(右注射の担当看護婦は、被告の答弁第1項のとおりである。)
右五日と六日の各注射は大腿部の外側部になされ、事前事後ともに異常はなかつた。
七日朝の手代木久子看護婦による最初の注射も前日同様病室のベツトの上でなされた。
2 右七日朝の注射に当たり、手代木看護婦は、原告の右大腿部内側の膝関節の上約一三糎の部位に注射針を刺入した。
原告は、薬液の注射が終る直前頃、右膝関節のすぐ下前側の部分に激痛を覚え、その部位から下方に続いて足首に至る前側部分に電撃的シヨツクを受けた。
3 右注射が終り手代木看護婦が室を出た後も痛みが消えないので、原告は、藤田附添婦をして同看護婦の後を追わせ右の異常を訴えさせたところ、同看護婦は藤田に「すぐおさまります。」と告げたままなんらの処置もとらなかつた。そこで原告は痛みの消滅するのを待つた。
4 しかし、その後も痛みは続き、電撃的シヨツクを受けた脛の前側部分は無感覚状態となつた。
そこで、翌八日原告は、同科主治医本名医師に対しこの状態を報告したところ、同医師は「すぐ治る。」というだけで特別の手当もしなかつた。
翌九日原告は、同科主治医原医師にも右状態の継続することを報告したが、同医師は「二週間位したらおさまる。」というだけで、なんらの手当もなされなかつた。
5 その後間もなく同科石川教授の回診の際、原告は同教授にもこの状態を報告した。同教授は、原告の右足首の前側上部約一〇糎の部位を、皮膚が紫に変色する程、指で強くつねつたけれども、原告には全く感覚がなかつた。
原告は、その旨告げたが、同教授も特別の措置を講じなかつた。
6 二週間が経過したが、前記膝関節下部の痛みは一向におさまらず、かえつて、触れると飛び上る程の激痛を覚える程度に悪化し、その下方の脛の部分は、無感覚状だつたのが、絶えず小さな虫が多数集つてうごめくような感覚に変つた。
7 その後原告は、新任の主治医三島医師に対し右症状を訴えたところ、同医師は「脊髄の病気ではないか。よくわからない。」と答えて、殆ど取り合つてくれなかつた。
それから間もなく、同病院神経内科の医師によつて前記症状について診察が行われたが、「一か月位で痛みはとれる」という診断がなされ、ここでも特別の手当は行われなかつた。
8 同年一二月一二日、人工肛門閉鎖術、腹腔内癒着剥離術の手術創は治癒し、右に関する治療を終り、原告は退院した。
右退院の際、原告は三島医師から、右下腿の感覚異常につき順天堂医院(順天堂大学医学部附属病院)脳神経内科の平山恵造医師(前記入院前より原告の間脳症候群様症状について加療していた医師)の診察を受けるよう指示された。
9 退院後も前記注射後の痛み及び無感覚症状が継続し、原告は同年一二月一五日以降平山医師の診察を受け、「右伏在神経障害」の診断を受けた。同医師の診断内容と指示は次のとおりである。
(1) 手代木看護婦の注射時に前記痛み等の症状が発生したとすれば、注射針が神経に触れたか、あるいは神経の近くに針が刺入されたため注入した薬液が浸潤して右神経障害が生じたものと考えられる。
(2) 本症の治療法としては、脊髄で神経を切断する手術以外にはない。この療法の専門家として日赤病院の佐藤医師を推せんする。
10 原告は、前記退院後初めて昭和四六年三月一七日東大病院第一外科に行き右下腿の痛み等についての平山医師の診断結果を口頭で伝え、同月一八日平山医師の書面を同病院神経内科に提出し、次いで第一外科にもその旨報告した。右書面の要旨は「右伏在神経障害で、右大腿内側に行われたクロラムフエニコール注射によるものが考えられるので日赤佐藤医師にコルドトミー(脊髄前側索切截術)を依頼したい。」というものであり、原告もその手術を受けたいと希望した。そこで第一外科外来医長稲垣医師、石川教授、土屋医師は協議のうえ、疼痛の専門科である東大病院神経内科、麻酔科に診断と治療を依頼し、稲垣、土屋両医師は神経内科に原告を伴い同科井形医師に症状を説明した。
11 神経内科では診察のうえコルドトミーの適応はないと判断され、原告は、同年五月まで神経内科で薬物投与の療法を受けるとともに、麻酔科で加療を受けた。右判断が麻酔科及び日赤病院佐藤医師と相談の結果なされたものであることは認める。
12 その頃には、膝関節下部の疼痛部分は脛を通り足首まで拡がり、常時灼熱痛となり、軽く何かに触れたり歩いたりすれば勿論のこと、風になぶられても、右灼熱痛に加えて甚しい激痛を感ずるようになつていた。そのため原告は、夜昼睡眠もとれないことから全身が衰弱した。
しかし原告は、何とかこの症状を克服したい一心で、自動車又は電車の振動に身を切られるような痛みに堪えて、当時の住所浦和市から足をひきながら東大病院に通院を続けた。
13 同年三月一九日頃原告は、平山医師の紹介で、日赤病院の佐藤医師の診断を受けた。その診断結果は「右伏在神経障害」とし加えて次のような判断を示している。
(1) 注射により注入された薬物が伏在神経にからみついているので、早い時期に手術を行つて薬物を神経から剥離すれば癒つたと考えられるが、現在では手おくれである。
(2) 治療法としては、脊髄で神経を切断する以外にない。
14 原告は同年五月まで東大病院麻酔科に通院し、その間に、注射による硬膜外神経ブロツク、腰部交感神経遮断、局所浸涸麻酔、薬物療法を受けたが、効果がなく、同病院整形外科の診断を受けることとなつた。
15 同整形外科において、原告は、第一外科の稲垣、土屋両医師及び神経内科の井形医師の立会で、整形外科津山教授の診察を受けた後、伏在神経切断手術を受ける予定で同年九月九日整形外科に入院したが、成功の見込が少ないという理由で右予定を変更して一旦退院した。
しかし、原告及び医師らとの打合わせの結果、万一の成功に期待して右手術を実施することとなり、原告は同年一二月二日再入院し、右大腿部内側における伏在神経切断手術を、津山教授指導のもとに関根医師執刀により、受けた、右手術後三日間前記灼熱痛は薄らいだが、その後はまた元に戻り、結局同月二五日退院しなければならなかつた。
16 津山教授の診断は次のとおりである。
(1) 脳に痛みがうえつけられてしまつたので、仮に大腿部切断までしたとしても、その痛みの感覚を取り除くことはできない。
(2) 外科的処法では痛みを取ることはできないから、同病院精神科に通院してその療法に従うこと。
17 そこで原告は、同精神科において多量の内服薬の投与を受け、現在に至つている。
18 右整形外科退院後、原告は、最後の方法として日赤病院佐藤医師の脊髄で神経を切断する手術を受ける決意を固めたが、東大病院の外科、神経内科、整形外科の全部の医師が右手術に反対し慎重に考えるよう勧告したので、原告はこれに従い思いとどまつた。
19 以上の経過のもと、前記注射による「右伏在神経障害」の灼熱痛及びこれに加えて頻発する激痛は、原告の生涯に永続する不治の症状として心身に遺された。
20 かくて原告は、昭和四八年九月一一日埼玉県第五二七八一号をもつて、障害名「カウザルギーによる右下肢機能障害」により身体障害者等級第二種六級の認定を受けた。
21 原告の現在の肉体的苦痛とそれに伴う生活の支障は、次のとおりである。
(1) 右膝関節下部から右足首に至る脛の前側部分に、常時熱した針で突き刺されるような灼熱痛があり、加えて右半身のうち腰部から下方に微量の力が加わつても、その強さと時間に応じて激痛が襲う。
(2) 右疼痛部分は、風になぶられても痛みが激しくなるから、物に触れることを絶対に避けなければならない。
(3) 坐る場合は、足を投げ出すか椅子等に腰掛けるほかはない。足を投げ出して坐ると、動く際に下肢に力がはいるので激しい痛みを感じるし、また、腰掛けて三〇分も経過すると、立ち上る際に右脛骨又は腓骨が割れるような痛みを受けるので、杖に頼るほかはない。
(4) 歩行は、平担な場所を杖に頼り短時間痛みに耐えて歩ける程度で、特に階段の昇降は困難である。
(5) このように歩行、坐立などの動作は苦痛に堪えて緩慢にしなければならないから、火災、地震等緊急の場合に独立で避難することは不可能に近い。
(6) 疼痛は温度の上昇につれて増加するので、入浴は思いもよらず、厳寒時でも、ストツキングも着用できないし室内に暖房をすることもできない。
(7) 自動車、電車の利用も、痛みに堪えて東大病院に通うのが限界で、到着したときは堪えられず痛み止めの注射を受けることもある。通院等で動いた夜は一層苦痛が激しく、殆ど眠れない。このときは睡眠薬の服用も効果がなく、痛み止め注射も本数に制限があり、歯をくいしばつて堪えるよりない。
(8) 右足を軸にして身体を廻したり、ひねつたり、爪先立ちしたりできず、しやがむこともできないから洋式便所しか使用できない。
(9) 買物、掃除、洗濯等には他人の手助けが必要である。
22 原告には三子があり、独力で養育し、長女は家政大学を卒業し栄養士と保母の資格を得たうえ、結婚し、次女は東京医科歯科大学を卒業して歯科医となつて外科医師と結婚し、長男は昭和四九年春日本歯科大学を卒業し歯科医となつた。原告の労苦が実り、楽しい余生が約束されていたのに、子等の幸せを祈り、孫を抱きたいと願うことすら今は考えられない。
激痛が襲つたときは自殺も考えたが、長男が通学中の時期には、卒業前の長男を独り残さず生きて相談相手にならねばと思い直し、一人で痛みに堪えなががらこのような思いを繰り返していた。此頃では、遺族や周囲の人に迷惑をかけないで失敗せずに死ぬ方法は何かとしきりに考え込むようになつた。
23 (被告の責任)
(1) 原告の「右伏在神経障害」は、手代木看護婦の次の過失により生じたものである。
(ア) 大腿部に対する筋肉注射は、神経が輻湊している内側を避けるのが常識であるのに、注射部位を誤り、右膝関節上部内側約一三糎の部位に注射針を刺入した。
(イ) 右のような危険な部位に注射をすれば、注射針が直接神経を刺し又はこれに接触するか、注入した薬液が神経に附着又は浸潤するかして、神経障害が生じ得ることを予見すべきであるのに、これに気づかず、また結果の発生を回避する方法を講ずることなく漫然と注射をした。
(2) 「右伏在神経障害」が不治のものとなつたのは、次の各不作為による過失が競合して、遂に原告の症状を救済不能のものにした。
(ア) 手代木看護婦は、注射後間もなく原告からの訴えを聞きながら、担当医師への報告を怠り、迅速、適切な措置を得させなかつた。
(イ) 注射の翌日には本名医師が、その翌日には原医師が原告から訴えを聞きながら、症状を軽度に判断して、なんらの手当も行わず放置した。
(ウ) 第一外科の医師全体が、原告の症状を「脊髄の病気である」と誤診し、もしくは手代木看護婦の過失を隠ぺいすべく、注射事故であることを長く否認し、障害除去のための早期の手当をしなかつた。
(3) 被告は、病院経営者として、被用者であり履行補助者である手代木看護婦の前示過失行為及び被用者であり履行代行者である前示各医師の過失行為について、民法七一五条及び診療契約上の債務不履行(不完全履行)による原告の損害を賠償すべき義務がある。<中略>
二 被告指定代理人は、答弁として次のとおり述べた。<中略>
本件注射の際の原告は仰向けに寝ていたので、手代木看護婦が原告主張の位置に注射針を刺し入れて伏在神経附近に到達させることは、同看護婦及び原告がともに無理な姿勢をとらない限り不可能であり、また、大腿前面正中線より内側四五度の角度で注射針を刺し入れ伏在神経の位置に到達させるには、少なくとも六糎以上の長さの注射針を必要とするが、実際に使用された注射針の長さは三糎である。
大腿四頭筋内に注射された薬液は、同筋を囲む厚い大腿広筋膜に妨げられてその外に浸透することはありえないので、皮下を走る伏在神経周囲に達することもありえない。
神経内又は周囲に薬液が注入されあるいは浸透したならば、神経及び周辺組織に広範な強い器質的変化が認められる筈であるが、本件注射の二日後(昭和四五年一一月九日)に原宏介医師が精査したところでは局所の刺入点はもちろん、他に発赤、硬結、圧痛等の他覚的異常所見は認められず、約一年後になされた伏在神経切断手術の際の手術所見でも伏在神経及びその周囲組織になんらの異常も認められなかつた。
右神経切断の手術を受けた後三日間は疼痛が軽快したのにその後また元のとおり疼痛が戻つたというのは医学的に説明がつかないし、本件のように痛みが長期間固定し、伏在神経切断の前と後とで同じ痛みがあるという現象は心因痛以外には理解できないことである。今日までの医学界における報告例を見ても、神経又はその周辺にに薬液が浸透して生ずる疼痛は一過性のもので、その症状は運動及び知覚の麻痺であつて、疼痛を主訴するものはないし、クロラムフエニコール注射のために原告主張のような疼痛が発生した事例もない。
また、右伏在神経切断手術後に東大病院神経内科で受診した際に行つた神経学的検査においても、右下腿外側に温覚に対する過敏帯の存在という神経学的に奇異な現象が認められている。
さらに、原告は昭和四七年四月二一日から同年一二月二三日まで東京医科歯科大学附属病院第二内科に入院したが、その際の神経学的検査によれば、知覚の異常な分離が見られ、筋肉の萎縮が見られないことから、末梢神経障害、脊髄障害は否定され、中枢性疼痛は疑われている。
伏在神経は、脛骨神経とは別系統の大腿神経の一分枝で純粋な知覚神経であり、細くかつ安定した神経と考えられ、伏在神経に限局したカウザルギーの発生は考え難く、その報告もない。また注射によるカウザルギー発生の報告もない。原告主張のような下肢の疼痛がカウザルギーであるとすれば、たとえ自動車を利用しても一人で住所地から東大病院まで通院できる筈はない。昭和四七年三月二四日同病院第一外科で脈波の検査をした結果では交感神経系になんらの異常は認められなかつた。同病院整形外科津山教授も、原告の訴える疼痛を、カウザルギーでなく、心因性疼痛と診断した。
本件手術前における原告の既往症の病歴は、概ね次のとおりである。
(1) 昭和三二年厚生年金病院で子宮筋腫の手術及び腸閉塞の開腹癒着剥離手術を受けた。
(2) 昭和三七年一月から六月まで頭痛のため赤羽病院に入院した。<中略>
右のように、何回もくり返して手術を受けた患者は、一般に神経質で愁訴が過大であり、医師に対する不信感を有することが多い。原告の頭痛の病歴は長年を経過する難治性のもので、その訴えは「口を動かしても痛む」という表われ方の奇異な頭痛であつて、明確な病名が付せられない場合に付せられる間脳症候群という病名を付せられ、東大病院麻酔科外来専門医による診断では離婚、訴訟、事業不振などが原因となつて疼痛が頭部に投影されたための心因性疼痛とされている。
原告主張のように下腿部の疼痛がもしあるとすれば、それは既往症の間脳症候群の痛みが何らかの縁由により又はこれを作出して形と位置を変えて現われていると見られ、本件注射がなかつたとしても、今日までの間に何らかの疼痛が原告の身体の何処かに発生していたと考えられる。
原告は、昭和四七年四月二一日から同年一二月二三日まで前記の東京医科歯科大学附属病院第二内科入院中、鎮痛剤として毎日ソセゴン、ペンタジンの注射を受けているが、右入院期間中に下肢痛があつたのは入院当初の四月及び五月中だけで、六月から八月までは殆どなく、九月以降退院までの約四か月間は下肢痛は全くなかつたのであり、他方、入院期間中常に腹痛が継続し、特に六月以降退院までの七か月間は強度の腹痛が存続して前記ソセゴン等の鎮痛剤の注射を毎日受け、退院後も引き続きこれを注射していた。その注射は下肢痛の鎮痛のためではなく、腹痛もしくは長期間にわたる多量の注射継続によつて生成されたソセゴン等への依存性に起因する禁断現象を逃れるための注射と考えられる。
心因性疼痛は、一般に稀でなく、神経学的に説明のつかない奇異な疼痛が長く存在し、頭痛などのほかに四肢の一部にも疼痛が投影されることがあり、基礎に患者のヒステリー性格があり、異常な知覚の表現、随伴症状(頭痛、胃腸障害など)が多く見られるなどといわれている。これらの事柄はよく原告の状態と一致している。
以上によれば、原告主張の疼痛があるならば、それは本件注射とは関係のない心因性の疼痛である。
原告の疼痛を注射によるカウザルギーであるとする平山医師の診断書(甲第一号証)は、脊髄神経遮断、交感神経遮断、脈波検査、精神科的診察、経過観察などの精査をすることなく、原告の愁訴のみに基き、かつ、これを正しいものと仮定して書かれたもので、正しい診断ではない。
原告は、昭和四五年一一月七日午前七時に本件注射を受けてから、同月九日朝本名医師に対し右下腿の知覚低下を訴えるまでの間、医師及び看護婦と数多く面接しているのに、右異常について何らの訴えもせず、また平山医師から前記診断書を入手するや、同医師の受診を止めているのは不可解であり、原告の主張の作為性が疑われる。<中略>
第三 証拠関係<省略>
理由
一原告(大正八年八月七日生の女性)が昭和四五年九月二三日被告経営の東大病院第一外科に入院し同年一一月五日午後一時一〇分から二時五〇分までの間人工肛門閉鎖及び腹腔内癒着剥離の開腹手術を受け同年一二月一二日治療を終えて退院したこと、右手術後の感染防止のため手術当日の同年一一月五日朝から同月一〇日朝まで毎朝夕(計一一回)被告の被用者である同科所属の看護婦(担当看護婦は被告主張のとおり)によつてクロラムフエニコール(クロマイ)各一グラムの筋肉注射が原告の大腿部になされたこと、そのうち問題の同月七日朝の注射は手代木久子看護婦が担当し右大腿になされたものであること、(原告は「右注射の後間もなく藤田附添婦を通じて手代木看護婦に対し、さらに原告みずから翌八日担当医本名医師に対し、翌九日同原医師に対し、それぞれ右下腿の疼痛を訴えた」旨主張し、被告は「右注射の翌々日同月九日に初めて原告みずから右各担当医に対し、同日藤田附添婦を通じ手代木看護婦に対し、それぞれ右下腿の知覚低下が訴えられ、疼痛の訴えは同月一六日に至つて初めてなされた」旨主張し、訴えの時間及び内容に争いがあるが、いずれにしても)前記七日朝の注射を原因とするものとして右下腿の知覚異常の訴えがなされたこと、入院中に疼痛を主とする右下腿の知覚異常について同病院神経内科の医師によつて診察がなされ「一か月位で痛みはとれる」と診断されたこと、原告は、右入院前に間脳症候群様の症状があつて順天堂医院(順天堂大学附属病院)脳神経内科平山恵造医師の加療を受けていたが、前記東大病院退院の際、担当の三島医師から右下腿の知覚異常については平山医師の診察を受けるよう指示されたこと、原告が右退院後初めて東大病院第一外科に行つたのは昭和四六年三月一七日であり、原告は、その際右下腿の痛み等についての平山医師の診断結果を口頭で伝え、翌一八日に同病院神経内科に平山医師の書面(その要旨は「右伏在神経障害で、右大腿内側に行われたクロラムフエニコール注射によるものが考えられるので、日赤病院佐藤医師にコルドトミー(脊髄前側索切截手術)を依頼したい。」というもの)を提出し、第一外科に右手術を受けたいとの希望を告げたこと、そこで第一外科では疼痛の専門科である東大病院神経内科及び麻酔科に原告の診療を依頼し、神経内科で診察し麻酔科及び日赤病院佐藤医師と相談の結果コルドトミーの適応はないと診断されたこと、原告は神経内科で(同年五月まで)薬物療法を受けるとともに麻酔科での加療を受けたこと、麻酔科では、通院により、注射による硬膜外神経ブロツク、腰部交感神経遮断、局所浸涸麻酔、薬物療法を受けたが効果がなかつたこと、次いで東大病院整形外科津山教授の診察を受けた後、伏在神経切断手術を受ける予定で昭和四六年九月九日同科に入院し、右伏在神経三回、右大腿神経二回の神経ブロツクを受けて疼痛症状の改善が見られた(原告の主張では三〇分間位痛みがとれた)ことがあつたが、深部の痛みが残り、伏在神経切断術は成功の見込みが少いとして一時手術を見合わせ、同年一〇月一四日泌尿器科へ転科し乏尿の検査を受け乏尿症状の軽快により同月一九日退院したこと、原告は、右退院の日に同病院精神神経科で受診し、同年一一月二六日腸閉鎖治療のため同病院第一外科に入院し、保存的治療で軽快して同年一二月二日整形外科に転科再入院したこと、同科では万一の成功を期待して右伏在神経切断手術を実施することとなり、同月一三日に右大腿部内側における伏在神経切断術が施行され、疼痛症状は手術後三日間は改善されたがその後は徐々に元に戻り治癒に至らないまま同月二五日退院したこと、津山教授の診断は、痛みが脳に植えつけられていて外科的処法では除去できず精神神経科での通院加療を相当とするというものであること、原告はその後昭和四七年四月東京医科歯科大学附属病院に入院したことがあり、昭和四八年七月二六日に東大病院精神神経科で再受診し多量の内服薬の投与を受けていること、以上の事実は当事者間に争いがない。
そして、問題の昭和四五年一一月七日朝のクロマイ注射は、前記開腹手術の翌々日のことであり、原告本人尋問(第一回)の結果によると、ベツトに仰向けに寝た姿勢の原告の右側に手代木看護婦が位置してなされたものであることが認められる。
二原告本人が第一回尋問において供述するところでは、必ずしも細部(ことに症状の変化)について一貫する供述内容ではないが、要するに「手代木看護婦によつてなされた七日朝の本件注射の際、薬液の注入を終り注射針を抜く時に右下肢の膝下から足にかけて電撃痛が走つてすぐ消えたが、膝下の直径約五糎の範囲に痛みが残るとともに、その下部から足首までにかけて絆創膏を貼りつけたような感じの無感覚状態を生じた。そこで藤田附添婦に依頼し病室から退出した同看護婦のあとを追つて伝えさせたところ、同看護婦は藤田に「すぐ治る」旨返事をしただけであつた。右の痛みと無感覚状態はそのまま継続したので、翌八日に本名医師にその旨申し出て注射部位を示し、その翌々一〇日頃に原医師にも同様の訴えをした。右の症状は格別増強も減退もしないで同年一二月一二日退院の時まで持続した。右注射当日の七日夜、原告の次女百合子(当時東京医科歯科大学歯学部学生)とその友人杉原国扶(当時同大学医学部学生で後に百合子と結婚)の二人が見舞いに来て右注射時及びその後の状況を聞くや異口同音に「伏在神経をやられたな」と評した。右退院後、起立時に右膝上の大腿内側部表面に本件注射の跡と目されるくぼみが生ずることを発見し、計測したところ膝上一二、三糎の位置にあり、これは注射の際原告自身が観察し記憶していた注射針刺入部位と一致する。順天堂医院平山恵造医師にその注射跡のくぼみを示して症状を説明し右伏在神経障害の診断を下された。平山医師の最初の診察時には、触れるとび上るような灼熱痛が膝下部分のみにあつて歩行には杖を使用した。その後、東大病院神経内科、麻酔科で治療を受けるうちに膝下部にあつた疼痛は徐々にその範囲を下方に拡大するとともに、痛みの程度も激しくなり、絶対に触れることができず震動がひびくため歩行も困難な状態になり、後には熱した針で刺されるような痛みとなり、風に吹かれても激痛を発し、歩行中突然骨が割れるような痛みが走ることがあり、寒暑によつても症状が悪化し、これらの症状のため、膝を折つて坐ること、入浴すること、和式便所を使用することが不可能で着衣も制約される程である。本人尋問当時(昭和五一年二月)には時々極度の寒冷に瀑されたときのような痛みがよぎるようになつた。」というのである。
そして、<証拠>によると、平山医師は、原告が訴える症状を、本件クロマイ注射により右伏在神経を障害されて発症したカウザルギーであると診断したこと、<証拠>によると、東大病院第一外科(別称石川外科)、神経内科、麻酔科、整形外科の各科でも、原告が訴える疼痛等の知覚異常に対する診療に当たり、症状が主として伏在神経領域に存することから一応クロマイ注射による伏在神経障害があるものと想定して処置をし、昭和四八年七月頃症状が固定したものと認めて傷病名を右伏在神経障害(カウザルギー)とする身体障害者手帳交付申請手続用の診断書を発行し、原告は埼玉県知事より第六級の身体障害者と認定され、同手帳の交付を受けたことが認められる。
三しかし、当該注射を施行した看護婦である証人小野久子(旧姓手代木)は、「注射時における注射針の刺入部位その他の具体的状況及び原告の訴えの内容等については記憶がないが、当時の三交代制の看護勤務体制のうち準夜勤(午後四時から午前一〇時まで)の勤務に就いていた時(本件注射の翌々日九日)の夜九時の所定消灯時刻前に藤田附添婦から「あなたがした注射のところが変だと原告が言つている」旨告げられ、すぐに原告のところへ行つたことを記憶している。その日の夜に施行した注射部位に痛みが残つているものと思つた。」との趣旨の証言をし、前掲乙第二号証(東大病院第一外科の診療記録)中の医師の記録によれば、昭和四五年一一月九日記載の項に初めて右下肢の知覚異常に関する記載が出現し、それは「七日より右下腿前面部の知覚低下を訴える。」(証人原宏介(担当医)の証言によると、右は「七日から知覚低下が始つた旨の訴えが同月九日になされた。」という意味であることが認められる。)との記載であり、同月一六日から一七日にかけての記載の項に「右下腿の知覚低下の部分が疼痛に変つた」旨の記載及び知覚低下と知覚過敏の部位として脛骨前面に沿う膝下から足首に至るまでの右下腿正中線の左右両側にわたる脛前面の広範囲の図示がなされているほか、同月一八日記載の項には反射に異常がないこと、同月二三日記載の項には疼痛が最高に達した模様であること、同月二六日記載の項には知覚低下と知覚過敏がやや軽減した模様であることの各記載があり、同号証中の看護日誌では同年一一月一八日の項に初めて右下肢痛の記載が表わされていることが認められ、前掲乙第八号証(東大病院精神神経科外来診療録)による、整形外科からの紹介で昭和四六年一〇月一九日同病院精神神経科で受診した際、原告は「昭和四五年一一月七日の注射時に、膝下部分がピリツと痛みビリビリしていたが昼頃から次第に下方へ蟻走感が拡大し、一週間以内に軽度の痛みに変つた。ベツタリ何かを貼りつけたようで感覚がなかつた。二、三週間で痛みが次第に増強した。同年一二月退院時には痛みが強かつた。四六年二月には歩行に耐えられない程になり、以来同様の状態にある。」旨症状経過を説明していることが認められ、また、証人清原迪夫(東大病院麻酔科医師)の証言によると、本件注射の当日歯科学生及び医科学生にすぎない原告次女及びその友人杉原が注射部位と症状を聞き即座に伏在神経障害の判断をしたというのは驚異的であつて信じ難い事柄であること、昭和四六年四月二一日原告が東大病院麻酔科で最後に同証人の診療を受けた帰りに、原告は同病院の和式便所を使用したうえ普通にすたすた歩いて行くのを同証人が目撃していることがそれぞれ認められ、また、証人平山恵造の証言によれば、平山医師の前示診断は結局、本件注射後一か月以上を経た退院後における原告の愁訴のみに基く判断であること及び同医師は神経内科を専門とする医師であつて神経外科の領域については専門的知識経験がないことを認めることができ、以上の各認定を動かすに足りる証拠はない。
右認定及び後記の原告の精神状態に関する事実に照らせば、注射部位、疼痛等の症状の発生と推移の状況及びその訴えの経過に関する原告本人の前記供述は、不正確でかなりの誇張を含むと考えられ、たやすくこれを措信することはできないし、平山医師の前記診断をもつて、直ちに原告主張の注射による伏在神経障害の事実を認める証拠とすることはできず、また、発症の当初の頃の主訴の内容及び経過の実際は、むしろ被告主張と一致するものと認められる。
四そこで、前記のように原告の主訴に基き一応注射による伏在神経障害があるものと想定して処置した東大病院麻酔科及び整形外科等での治療経過を見るに、前掲乙第四号証(麻酔科診療録)及び清原証人の証言によると、同科において、昭和四六年三月二四日硬膜外麻酔、局所麻酔剤浸潤を施した際、音又震動、裁縫用ルーレツト及び筆による接触の各検査方法を使用して右下肢及び顔面の知覚テストをしたところ、原告には検査用具及び方法により結果が異なる感覚の分離という現象が見られ、また同年四月二一日腰部交感神経遮断を施行したところ、皮膚表面に触れても痛みを発しないのに、時々発作的な激痛が自発するという状態となり、いずれも奇異な現象と考えられること、前掲乙第三、第五ないし七号証(神経内科診療録、整形外科診療録等)によると、整形外科において、昭和四六年七月八日津山教授の診察の際、伏在神経の支配領域に高度の知覚鈍麻があり、その症状は同神経領域にとどまらず浅腓骨神経の支配領域にまで及んでおり、右大腿内側膝上約一三糎の部位に圧痛点が認められたこと、同年一〇月二日に大腿神経ブロツクをそけい部において施行したところ、右下肢表面の痛みは完全に去り、冷水に浸しても発痛しなかつたが、脛骨をたたくと深部にかなりの痛みを発し、また三〇分後には施療効果がなくなつたほか、同月一一日には神経ブロツクを施した後に疼痛が出現し、しかも従来痛くなかつた部位に発痛した旨の訴えがなされたこと、整形外科再入院中の同年一二月一三日になされた伏在神経切断手術において右大腿内側部を切開して大腿神経本幹からの分岐付近約五糎ほか一か所の神経幹を切除したが、その際の手術所見では神経及び筋肉は神経腫、癒着、瘢痕等が認められず全く正常であつたこと、右手術の結果、術後三日間だけは大いに良くなつた(ただ膝蓋骨の下端部分にのみ痛みが残つた)が、四日目から徐々に元の状態に戻り一週間で元通りの症状になり、昭和四七年二月には一層激しい痛みを訴えるようになり、同年三月二二日神経内科で受診した時には伏在神経領域と浅腓骨神経領域との移行部に合致する下肢前面の正中線に沿う部分に自発痛があり、その内側(伏在神経領域)に知覚低下があるほか、外側(浅腓骨神経領域)にも温冷に対する知覚低下が見られたこと、以上の事実を認めることができ、以上の認定を左右するに足りる証拠はない。
右認定の診療経過及び浅腓骨神経が坐骨神経の分岐であつて伏在神経とは走行位置を異にするものであることを前示の各事実に総合して検討すれば、原告の訴える疼痛及び知覚低下の症状は、伏在神経の障害によるものとしては理解し難いものであり、のみならず、特に、前認定の発症当初の主訴の状況、伏在神経切断手術時の所見、大腿神経ブロツク及び伏在神経切断術により一時的に効果が生じた後に症状が短時日に復元したこと、各種治療を受けながらかえつて次第に症状が重篤化し通常考えられる自然治癒機転が全く働らかなかつたことのほか<書証略>、小野久子証人の「同証人(手代木看護婦)は、東大附属看護学校卒業後本件注射時まで一二年以上引き続き病院看護婦としての勤務経験を有し、大腿部への筋肉注射は大腿四頭筋の前部においてなるべく外側部位に行うよう教育を受けていて、これまで大腿内側に注射をしたことはない。」旨の証言及び後記の原告の病歴、精神状態に関する事実をも総合すれば、同看護婦が原告の伏在神経に障害を生ずるような大腿内側部位への注射をした事実自体も証拠上認めることは困難であり、また、整形外科における治療前すでに伏在神経障害によるカウザルギーの感覚が高位に形成されていたものとも認め難い。
五<証拠>によれば、原告は、勝気な性格の女性で、昭和一八年頃結婚し、その後二女一男を生み、昭和二九年に調停離婚したが、昭和二四、五年頃夫と別れて上京して遠縁の者と共同で電気機器の会社を経営したほか、クリーニング業、アパート業をしたり、不動産取引仲介をしたりして男勝りの働きにより三人の子を苦労して養育してきたものであること、一二歳の頃ピアノの車が左足拇指に載る事故に遭い無感覚、しびれ感が続いたことがあり(前記整形外科受診当時もその痛みがあつて草履が履けない旨を原告本人は医師に述べている)、一九歳の頃肺結核で療養したほか、昭和三二年頃から子宮筋腫、腸閉塞で厚生年金病院、東大病院等に入院をくり返し、子宮及び附属器摘出、小腸一部切除、腸癒着剥離、人工肛門造設等何回も開腹手術を受けたほか、昭和三七年頃から頭痛に悩まされ、食欲不振、嘔気、眩暈、利尿不全、低血圧、右腕右肩痛等の症状もあつて赤羽病院、東大病院、慈恵大病院、虎の門病院、順天堂医院で入院、通院の加療をくり返し受け続けて来た多彩の傷病歴、加療歴を有し、頭痛等については間脳症候群の病名を付せられた難治性のものであり、昭和四一年慈恵大病院に入院中の検査で「脳代謝が被刺戟状態により亢進状態にあり、内在外来刺戟に対して脆弱性を有している。」とされ、原告には経営会社の事業不振による精神的緊張もあり、疼痛に対する恐怖心も過敏であること、本件注射後の入院中に右下肢痛について東大病院精神神経科で受診しヒステリーの疑いありと診断されたこと、昭和四七年四月から一二月まで東京医科歯科大学附属病院に入院しプソイドバーター症候群の病名を付され、頭痛、腹痛、右下肢痛その他の疼痛を訴えてしばしば鎮痛剤ソセゴンの注射を受け、退院後は住居付近の医師や自宅で毎日のようにソセゴンのほか鎮痛剤ペンタジンの注射を医師から受けまたは自分で注射を続け、次第に注射量及び回数が多くなり、習慣的に常用するようになつたこと、以上の事実が認められ、<証拠判断略>。また前示の各証拠及び事実に本件口頭弁論の全趣旨を総合すれば、原告は、平山医師が精査もせずにたやすく本件注射による伏在神経障害の診断を下し専門外のコルドトミー手術(癌等の末期的状況における苦痛から患者を救うための最後の手段とされる手術)をすすめるなどの同医師の安易な診療態度によつて、コルドトミー手術希望に執着し他の治療法に対する信頼感を薄れさせ苦痛を増幅、持続させた面も窺われるところである。(なお、日赤病院佐藤医師が原告主張の伏在神経障害の診断をしたとの事実は、これを認めるに足りる証拠はない。)
六以上を総合して判断すれば、原告の右下腿の疼痛等知覚異常については、これが本件注射の過誤により伏在神経障害を生じた結果の被害であるとの原告主張は、証拠上これを認めることができず、むしろ心因性の知覚異常であると認めるのが相当である。そして、医療処置における薬剤注射がしばしば当該注射部位の多少の痛み等知覚刺戟を伴なうことがあるのは当然であるから、本件手術後の感染防止のためになされたクロマイ注射のうちのいずれかによる知覚刺戟がたまたま原告の右下肢の心因性知覚異常発生にとつてひとつの契機となつたことが考えられるにしても、その注射自体が違法な侵襲であるとはいえないし、原告主張の知覚異常による被害との間に相当因果関係があると認めることもできないのは明らかである。
よつて、注射による伏在神経障害の発生を前提とする原告の本訴各請求はその余の争点の判断に立ち入るまでもなく、理由がないから、これを失当として棄却すべきものとし、民訴法八九条に則り、主文のとおり判決する。
(渡辺惺 満田忠彦 菊池徹)